私自身の不登校の記憶・その4 家族の様子(母親)
2024/07/12
さて今回からは、私が中学生で不登校になった時に、私の家族はどういった反応をしたのかを思い出してみます。
今回は前編です。
とはいえ、二十年以上前の当時中学2~3年生の子供の目線ですし、また自分自身のこと以外に目を配る余裕がほとんどなかった時期なので、とても狭い視野になりますけれど。
そのころの私は、父と母、姉が一人の四人家族で暮らしていました。
父の仕事で転勤があるので、小・中学生の間は2~3年ごとに他県に引っ越ししていました。
小学生の6年間で四国の愛媛県から香川県、徳島県と移動して、中学2年生の際にまた愛媛県に戻りました。
引っ越しが多く、自営業でなかったことも関係するのでしょうか。
学問が財産ということで、両親(とりわけ母が頑張っていましたね)はとても教育熱心でした。
引っ越したら、一生懸命にどの学習塾の評判が良いか調べてくれていました。
またスポーツも好きな家族で、私もサッカーチームにずっと所属していました。
年齢の近い姉との姉弟仲も良い方だったと思います。
家族それぞれに欠点はありながらも、恐らく平均的な(?)家族だったのではないでしょうか。
私が不登校になったのは、先述した通り徳島県から愛媛県松山市に引っ越しして、半年くらい経った時でした。
父も母も姉も、土地勘もなく、頼りにできる知り合いも少ない中で、今にして思えば良く色々してくれたのだなあ、と感謝する気持ちです。
まずは母のことを。
専業主婦だった母は、私の中学校とやり取りして、病院を探して、不登校やこころの病気のことについて勉強して、色々頑張ってくれました。
母はもともと心配性で、過保護っぽいところもあるので、当時はずいぶんと不安だったようです。
しかし息子のことが心配な一方で、母には苛立ちと焦りもあったはずです。
教育熱心で、子供たちをできるだけ良い高校、できるだけ良い大学に進学させたいと、これまで頑張ってきたのですから…。
それなのに息子が突然不登校になってしまい、ショックは大きかったでしょう。
この当時の私の家族は、
・学校は行って当たり前
・勉強は頑張って上位の成績を取ろう。
・将来は大学も行って当たり前、その中でもより有名大学に進学しよう!
こういった意識でした。
それが私の不登校によって、一番の前提である「学校には行って当たり前」が崩れたわけですから、母はとてもしんどかったし、できれば学校に戻ってほしいと(当初は)強く願っていたはずです。
母親に連れられて、何度か通学路を一緒に学校まで歩いたけれど、結局校内に入ることができず、何とも言えない気持ちで二人でトボトボ家まで帰ったことを覚えています。
心療内科の病院に行こうとしてタクシーを呼んだけれど、私は外出することが怖くて、タクシーになかなか乗れず、思わず母が声を荒げてしまったこともありました。
自宅も一戸建てではなく、父と同じ職場の家族が住む集合住宅の形式でしたから、ご近所さんの目もとても気になったはずです。
不登校の期間で、私が最も多く会話をしたのは母だったはずです。
私の性格上、キレることはありませんでしたが、悲観的なことを言って母を悲しませたことはあるはずです。
また、私は母には嘘をつきました。
都合のいいように、大げさに話を膨らませたこともありました。
体調が悪いように装ったこともあります。
実行できもしない予定を口にして、期待を持たせてしまったこともあります。
申し訳なかったことばかりです。
そんな中でも、母は毎日食事を用意してくれて、私の世間話に耳を傾けてくれました。
不登校になってから数か月が過ぎたころには、「今はもう仕方ない、しばらく好きなように過ごしなさい」といった姿勢で見守ってくれるようになりました。
これは本当にありがたいことでした。
私が学校に行けなくなった当初から、母は随分と自分を責めるようになりました。
これまでの母親としての関わり方が、ダメだったのではないか。
学校のことや成績のことで、プレッシャーをかけすぎたのではないか。
よく私に謝るようになりました。
もちろん子どもの立場としては、親のせいだなどとは露ほども思っておらず、「そんなことないよ」としか言いようがないのです。
むしろ当時は、こちらこそ、学校に行けなくて申し訳ないという気持ちです。
「母さんが~だったから…」と母がたびたび言ってくると、「いや、そんなこと言われると、こっちがしんどい」と私も言ってしまいます。
それでますます「ごめんね~」となってしまうのです。
私が学校に行かなくなって、母親が元気がなくなり、母自身が自分を責めている。
このことはどうにも、居心地が悪く、申し訳ない気持ちになりました。
母が、何か楽しそうに自分の趣味をしていたり、元気に外出してくれるようになると、私自身もホッとしていた記憶があります。
次回に続きます