株式会社パーソナルアカデミー

私自身の不登校の記憶・その9 定時制高校での人との関係

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私自身の不登校の記憶・その9 定時制高校での人との関係

私自身の不登校の記憶・その9 定時制高校での人との関係

2024/10/10

私の定時制高校時代の、周りの人との関りについて、少し書いてみます。
その後の大学時代に繋がることですので。


当時、私は部活にも入っていました。
夜間が開校時間の定時制にも部活はあって、ちゃんと大会もあります。
私の学校には、当時バスケと陸上部がありました。
(他にもあったけど、当時活動しているのはその二つだけだったのかな)

私は陸上部に入っていました。
なぜ陸上部を選んだのかはよくわかりません。
足は速い方だったけど、陸上競技が好きだったわけでもないし、走ること自体が楽しかったわけではないのですが…。
強いてあげるなら中学生の時、サッカー部が居心地悪くて、「やっぱりチーム競技は自分に合ってないなあ」と考えていたのかもしれません。


ところが、陸上部は二人だけ。
もう一人の同級生もそこまで乗り気ではなく、活動内容もグラウンドでランニングするくらいしかすることがなくて、退屈なものでした。


そんな時、体育館のバスケ部の活動に混ぜてもらうことがよくありました。
ミニゲームするときに、人数が足りないからバスケ部の人が誘ってくれたんです。
正直、みんなでバスケの方が面白かったです。

さて、そうなると陸上部ではなくバスケ部に変わってしまえばいいのに、私はどうしてかそういうことはしませんでした。
「ゲームの時だけでも混ぜて」とか「人数足りなかったら呼んでな~」とバスケ部の人に、自分からアプローチも出来ませんでした。
そのくせ、いつも誘ってもらえることを、ソワソワしながら待っていました。


私は中高生のころから、人との関係は常に受け身でした。

もちろん友人との間でも同じです。
定時制高校では(年上だけど)同級生の友人も出来て、遊びに誘ってくれたりしました。
不登校の時期は、しばらく友達と遊びに行ったりすることに縁がなかったので、とても楽しかったし嬉しかったです。

しかしそういった友達との遊びについても常に誘ってくれるのを待っている形になります。
こっちから誘ったり、これしよう、あれしようと提案することはありませんでした。

私は、寡黙でもなければ、奥ゆかしいタイプでもありません。
実際にバスケをみんなとしたり、友だちと外出したりすると、他の人よりもはしゃいでしまい、うるさいくらいでした。
本来はみんなと楽しんで騒ぐのが好きなのだと思います。



しかし、自分から誘うのは出来ないのですね。
提案したり、自分の気持ち、自分のしたいこと、相手にしてもらいたいことを表現することが、とてもしんどいのです。

しかし誰かと一緒に遊びたい気持ちもとても強いわけです。
すごく矛盾があるというか、気持ちが反対方向に引っ張られているというか…。



私は幼いころから、引っ込み思案で、しかもカッコつけでした。
ですから、失敗したり恥をかくことを極端に苦手にする子供でした。

とは言え、そういったことは小学校で少し改善したはずです。
小学校の5・6年生の頃は、結構友達を誘って自転車であっちこっちに行くような、小生意気な男の子でしたから。



それが中学校で色々上手くいかないことがあって、しかも不登校になって、もしかしたら大きく後退したところはあったと思います。

失敗すること、恥をかくことがますます怖くなり、引込み思案で体面を気にするところもそれに引っ張られて強くなりました。



本当に欲しい結果のためには、不細工でも覚悟の上で飛び込んでみる。
泥臭く粘ってみる。
周りの人を頼ったり、信頼して委ねる。
ダメだったらそれはその時。
そういうことが出来なかったのです。



恥ずかしい思いをすることや、相手に拒絶されることが、怖くてしょうがないのでしょう。
受動的で、自分から関係を押し広げていくことはありません。
そしてそれが、クセになってしまったのだと思います。

高校生時代は、好きな女の子もいたのですが、結局卒業まで自分の気持ちを伝えられず、当然そのまんま何もなし。
私の人間関係は、(相手方が動いてくれない限り)そうした「何も始まらない」状態でズルズル時間が経過していくものになってしまいました。



こういった、人への受動的な関わり方のせいで、大学に進学してから高校時代以上にみじめな思いをするのですが、それはまた今度書きましょう。

次は大学をどうやって選んで、どうやって進学したかを書いてみます。

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