不登校と「普通」でいたい子どもたち
2022/12/05
「普通」…ありふれた、特別なところのない、あたりまえの
「普通の学校に行きたい」という子どもたちがいます。
できるだけ普通の生活がいい、という子どもたち。
小学生や中学生に、「進学先どうしたい?」という質問に対してです。
小学生の頃から、中学校は、そして高校は、こういうところに通うんやろうなあ。
兄弟や近所のお兄さんお姉さんが通っている姿を見たりして、多くの子がと漠然と考えている「普通の進学先」。
例えば、中学三年生が「普通の高校がいい」と言ったら、
大人の側としても、賛否は別として「何となく言いたいことはわかる」と苦笑しつつも頷いてしまうかもしれません。
子どもたちは「普通」と言ったとしても具体的な定義もないし、情報を調べて比較したり、他の人から意見を聞いたわけではないかもしれません。
例えば
「私立でもいいの?」
「バリバリの進学校だとしんどくない?」
「中高一貫校で~」
「共学が~、女子校が~」
と聞かれた場合、どこまで許容できてしまうかはその時々でしょうから。
日本で暮らす人たちが何となく共有している、「普通」に対する漠然とした「イメージ」はあるのかもしれません。
「普通の中」からより偏差値のいい学校を目指すとか、特別な教育を受けられる学校を選ぶ、その枠組みから外れるとソワソワ不安になったりする、そんな「普通」。
まあ、身も蓋ないことを言えば、フリースクールは「普通ではない」と言われちゃう時の「普通」ですよね(悲しい…)。
平日は朝から夕方まで授業があって、校舎があって制服があって。
定番の部活があり、これまた定番の文化祭や体育祭のイベントがある。
教員免許を持った常駐の先生がいて、自治体や学校法人が責任を持っていて。
三年生になったら受験して、そこそこの進路に決まる、といった。
こんな感じで、それぞれの人が「普通がいいなあ」といっても、その言葉自体でとても曖昧で、人それぞれ、時代や地域でもそれぞれ異なるフワフワしたものです。
でも、その言葉の裏には「そこなら安心できる」と言う気持ちが見え隠れします。
「普通」の子どもでいたい。
「普通」の学校がいい。
大人たちの中にも「普通がいい」と、ぼんやり思い続けている人が結構いるのだろうと思います。
「普通の生活」
「普通の家族」
「普通の日常」
自分の中での「普通」から外れると、とても不安な気持ちになります。
だから、「普通」と言う言葉はそれぞれの人が「不安を感じない状態」と置き換えてしまってもいいのかもしれませんね。
不登校を経験して長くなると、「普通がいい」といったことは言わなくなるかもしれません。
人それぞれ、色んな事情があるし、色んな選択がある。
大人になっていくには、色んな選択肢があるということが、子どもなりに分かってくるからなのでしょう。
「普通がいい」という曖昧な言葉ではなくて、
「色んな選択肢があるのは分かったけど、自分は○○で頑張ってみたい。」
そう言えるのが一番いいです。
一時的に不登校になった時期があったとしても、「自分なりに安心できる学校」に戻りたいという気持ちがある子は、どんどん復学したり進学すればいいと思います。
私たちのフリースクールに通っている子でも、全日制の高校に進学したり、中学校から学校に戻っていく子がたくさんいます。
全日制普通科の高校だったり公立の中学校だったりが、その子にとって本来安心できる場所であるというならば、挑戦してみてほしいです。
もちろん学校に行かないことを選ぶ子だっています。
「普通じゃない」とか言われても知らんし。
学校に通うのは、自分にとってしんどさしかないから。
むしろ自分の感性からしたら、学校に通うほうが落ち着かへん。
そういった子が、自信を持って歩んでいける環境を大人は準備しないといけないと考えています。
これから大人にとっても「普通」が曖昧になってくると思います。
「普通の大学」「普通の専門学校」とかなんだかわけがわかりません。
「普通の仕事」とかだと、増々厄介な気がします。
「普通の人生」ってさっぱりです。
選択肢も多くなるし、かといって誰もがどこにでも進めるわけでもないし。
自分にとって受け入れられる、「自分が安心できる選択肢」を選んでいくことが大切です。
チャレンジするな、リスクを避けろ、と言うわけではありません。
非凡であってほしい、特別でありたいということがダメなわけでもありません。
むしろそういった状態でこそ、気持ちが充実しているという人だっているわけですから。
自分にとって、腑に落ちる。
不協和音が起こらないような、そんな自然と落ち着く状態に自分自身を持っていければいいのになと感じています。