私が不登校になった時の私の家族・前半

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私が不登校になった時の私の家族・前半(フリースクールに携わっている動機 その4)

私が不登校になった時の私の家族・前半(フリースクールに携わっている動機 その4)

2021/07/16

私(中内)が「フリースクールに携わっている動機」を書くつもりが、なぜか私の中学生時代のことを長々と書くことになっています。

なにか特別なきっかけや出会いがあったわけではなく、長い時間の積み重ねの上での選択ですので、つい冗長になることは許してください。


さて今回からは、私が中学生で不登校になった時に、私の家族はどういった反応をしたのかを思い出してみます。
これも長くなりそうでして…、複数回に分かれるかもしれません。

とはいえ、当時中学2~3年生の子供の目線ですし、また自分自身のこと以外に目を配る余裕がほとんどなかった時期なので、とても狭い視野になりますけれど。


私は、父と母、姉が一人の四人家族です。
父の仕事で転勤があるので、小・中学生の間は2~3年ごとに他県に引っ越ししていました。
小学生の6年間で四国の愛媛県から香川県、徳島県と移動して、中学2年生の際にまた愛媛県に戻りました。

 


このように引っ越しが多く、自営業でなかったことも関係するのでしょうか。
学問こそが子どもたちへの財産ということで、両親(とりわけ母が頑張っていましたね)はとても教育熱心でした。
引っ越したら、一生懸命にどの学習塾の評判が良いか調べてくれて、習い事に通わせることにも前向きでした。

またスポーツも好きな家族で、私もサッカーチームにずっと所属していました。
父は私のサッカーの大会の際には、よく車で送り迎えしてくれました。

年齢の近い姉との姉弟仲も良い方だったと思います。
引込み思案で要領の悪い私には、頼りになるしっかりものの姉でした。


もちろんそれぞれに不満はあるのですが、ここでは割愛。
家族それぞれに欠点はありながらも、恐らく平均的な(?)家族だったのではないでしょうか。



私が不登校になったのは、先述した通り徳島県から愛媛県松山市に引っ越しして、半年くらい経った時でした。

父も母も姉も、土地勘もなく、頼りにできる知り合いも少ない中で、今にして思えば良く色々してくれたのだなあ、と感謝する気持ちです。



まずは母のことを。
専業主婦だった母は、私の中学校とやり取りして、病院を探して、不登校やこころの病気のことについて勉強して、色々頑張ってくれました。
母はもともと心配性で、過保護っぽいところもあるので、当時はずいぶんと不安だったようです。


しかし息子のことが心配な一方で、母には苛立ちと焦りもあったはずです。
教育熱心で、子供たちをできるだけ良い高校、できるだけ良い大学に進学させたいと、これまで頑張ってきたのですから…。
それなのに息子が突然不登校になってしまい、ショックは大きかったでしょう。


この当時は、私の家族は、

・学校は行って当たり前
・勉強は頑張って上位の成績を取ろう。
・大学も行って当たり前で、その中でもより有名大学に進学しよう!

こういった意識でした。
それが私の不登校によって、一番の前提である「学校には行って当たり前」が崩れたわけですから、母はとてもしんどかったし、できれば学校に戻ってほしいと(当初は)強く願っていたはずです。



何度か母親に連れられて、通学路を学校まで一緒に歩いたことがありましたが、結局校内に入ることができず、何とも言えない気持ちで二人トボトボ家まで帰ったことを覚えています。

心療内科の病院に行こうとしてタクシーを呼んだけれど、私は外出することが怖くて、タクシーになかなか乗れず、思わず母が声を荒げてしまったこともありました。

自宅も一戸建てではなく、父と同じ職場の家族が住む集合住宅の形式でしたから、ご近所さんの目もとても気になったはずです。
 

 

 

不登校の期間で、私が最も多く会話をしたのは母だったはずです。
私の性格上、キレることはありませんでしたが、悲観的なことを言って母を悲しませたことはあるはずです。

 

また、私は母には嘘をつきました。
都合のいいように、大げさに話を膨らませたこともありました。
 

 

 

そんな中でも、母は毎日食事を用意してくれて、私の世間話に耳を傾けてくれました。
不登校になってから数か月が過ぎたころには、「今はもう仕方ない、しばらく好きなように過ごしなさい」といった姿勢で見守ってくれるようになりました。

本当にありがたいことでした。

 

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