学校に行くのが『損』か『得』かで考えて良いはず 前編(再掲載)
2022/06/28
私は、学校に行くか、行かないかの選択基準は『損得勘定』でいいと思っています。
ちょっとしんどいけれど、学校に行ったほうが、得することが多いな、と感じたら登校する。
学校に行ったら色々得られるけれど、それよりも自分のダメージが大きい、と計算したら行かない。
これだけでいいんだと思います。
だから不登校の問題に、『善悪』のようなものを持ち出すのは少しズレていると感じます。
大人が、学校に行き渋る子どもを問題児扱いするのはおかしいし、
子どもたちのほうでも、学校に行けないことを後ろめたく感じる必要もないはずです。
学校に行くことは正しい、良いことだ、と考えていると、実際に学校に行けなくなったときに
どん詰まりになってしまう。
「学校に行くことが『正しい』から無理をしてでも学校に行くんだ」
これではあまりにつらいです。
極論だけれど、
「これ以上、学校に行くと死んでしまう」
と感じていて、それでも学校に通学する子どもたちがいて、
それは学校で「楽しいことがある」とか「自分の成長のため」とか
メリットがあるから行くのでしょうか。
やはり恐怖心や義務感、行き場のないしんどさに縛られて、
学校に引き寄せられているのではないでしょうか
「学校には行かないといけないから」と思い込むのは悲しいことです。
いろんな事情を総合的に計算して、学校に行くのか行かないのか答えを出せばいいんです。
就職や転職の時とか、老後の資産の運用とか、人生の岐路では
大人だってみんな必死に『損得勘定』をしています。
きっと国会から職員室まで、足し算引き算の連続です。
別にお金だけを計算しているわけではありません。
根っこのところにあるのは、みんなで幸せになることです。
そしてそのために、まずはどうすれば自分が幸せになれるのか、
その計算を積み上げていくのは大切な作業のはずです。
さて、このように「損得勘定で判断していい」と言ったとしても、現実はうまくいきません。
学校を休む子どもたち自身は、何か計算に裏打ちされているから
不登校を選択するわけではありませんよね。
しんどくて、迷ったり、悶々と悩んで、それでもやっぱり無理…。
色んな葛藤の末に、学校に行けていないはず。
なんとなくだったり、ほかにどうしようもない場合だったり。
登校できない子どもたちは、自分でもこれからどうしていいかわからないし、
いろんなことに自信がなくなっています。
そしてお父さんお母さんも「何とかしないと!」と色々と動いて、時に空回りしたり。
いつの間にか家庭の空気も重くなって、もしかしたら衝突することもあるかもしれません。
そんな状況ですから、学校に行きづらくなった当初は、『損得勘定』といっても
そんな精緻な計算をする必要はないんです。
子どもたち自身は、
「学校に行くのがしんどい」、「不安だ」、「怖い」って気持ちが、
「学校に行きたいなあ、行ってもいいかなあ」という気持ちより大きくなっちゃったら、
もう休んでしまっていいと思います。
お母さんお父さんは、
ふとした時に、ちょっと思い出してくれるだけでいいんです。
「あれ? 何だかこの子すごくしんどそう。最近笑ってるところ見たことない…。
そこまでして学校って行かなきゃいけないんだっけ…?」
まずは学校に行かない、学校に行けない、という状況を受け入れるために
少しだけ足し算引き算をしてみてください。
学校で学ぶ機会や、集団生活を「得る」ためとはいえ、
親子の笑顔を「損なって」まで学校に行かないといけないのか。
今は学校を休むほうが、得るものが大きいのかもしれないな、
そんな風に考えることができたなら、
家族みんなの気持ちが、少し落ち着くかもしれません。
将来のためにどうするのか。
学校に行かないことで何を失って、どのように補うかといった考えはもちろん重要です。
しかしまずは、無理に学校に登校することで大切なものを失うことがあり、
不登校で得るもの(守られるもの)のほうが大きいこともあるという、
当たり前の計算ができるようになってほしい。
そうすれば随分と気持ちが楽になるのではないでしょうか。